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2023年11月25日土曜日

Édouard Louis: Changer: Méthode


 2023年11月11日読了

著者:Édouard Louis

刊行:2021年

Kindle: 1478円

評価:★★★★☆

1992年生まれの若手フランス人作家Édouard Louisがこれまでに発表した作品は5つ。私はこれらすべてを読んでおり、本書を含めてそのうち3つをこのブログで取り上げている。これまでと同様、本書も非常に読みやすかった。おそらく辞書なしでも読めただろう。文章が平明なだけではない。息をもつかないような独白の流れがおもしろく、ほとんどつまずくこともなく読み進められた。本書と並行して読んでいた泉鏡花の「高野聖」と「婦系図」のほうが未知の単語も多く、一筋縄ではいかなかった。

Changer: Méthode(変わる:方法)は作者の処女作であるEn finir avec Eddy Bellegueule(エディに別れを告げて)の続編だ。「エディに別れを告げて」は、著者が地元(villageと表現されているが、これを「村」と訳するのは正確ではない。確かに田舎ではあるが、「地元」はフランス北部の工業地帯にあり、農業とは無縁。small townといったほうがぴったりする)を離れ、小都市Amiensのリセ(高校)へ入学するところで終わっている。村を出るとは、貧困と暴力が連鎖する環境、テレビと酒だけが娯楽である生活から逃れることを意味している。村を支配するmachismo(マッチョ)も同性愛的傾向持つ著者を苦しめた大きな要因だ。

Changer: Méthodeは、アミアンの高校に入った著者が周囲に合わせて必死に自分を変えようとするところから始まる。その触媒となったのがElenaという同級生の女性とその家族だ。クラシック音楽や観劇、それに読書を趣味とするElenaやその母親を模倣する著者、「変わる」こと、「(これまでの環境から)逃げる」ことに取りつかれた生活がいろいろなエピソードを通じて描かれる。

だが、やがてアミアンからも逃れ、パリに出ることが新しいobsessionとなる。そのきっかけは社会学者のDidier Eribonだ。彼の講演を聴き、その後知己を得たことから、「彼のようになりたい」という思いから逃れられなくなる。同性愛者であること、田舎の貧しさから逃れてきたことなど、両者の境遇は重なるところが多い。

筆者の逃亡願望、地元を捨て、アミアンをも捨て、別の誰かとして存在したいという想いは、エリート校であるパリのÉcole normale supérieure(高等師範学校)に入学することで現実のものとなる。

それだけにとどまらない。やがて処女作のEn finir avec Eddy Bellegueuleを発表。この作品は高い評価を受け、英語をはじめ多くの言語に翻訳されている。ここに至る過程で、同性愛者としてさまざまな階層の男性と知り合い、富豪や貴族の世界をも垣間見ることになる。30歳にも満たない身で、あまりにも多くのことを見て、経験してきたのだ。

もちろん本書は一介の青年の成功譚ではない。こうした青年を生み出したフランス社会の構造を浮き彫りにした本ともいえる。作者は自らのアイデンティティの核とも言える貧困と無知の出発点にいつも立ち返っている。しかし、その立ち返りが不十分だという感がしないでもない。本書の評価を5つ星ではなく4つ星にした理由はここにある。

2023年10月4日水曜日

シンガポール短期英語留学記 その2

 学校

EF Language Schoolはシンガポール中心部のクラーク・キー地区にある。英語を学ぶ学生が大半だが、10~20%は中国語を学びに主として欧米からやってきた学生だ。

この学校に通うにあたって私の最大の懸念は、年齢のギャップであった。17~25歳くらいの学生が90%くらいを占めるなか、私はだんとつに高齢だった。この懸念は半ば外れ、半ば当たった。

日本でオンラインで受けたReadingとListeningのテストに加え、学校初日の簡単なインタービューの結果、私は上級のクラスに配置された。14、5名のクラスメートの半数近くはドイツ人だった。その他、メキシコ、エクアドル、ベルギー、フランスなど。1週目は私のほかに日本人も2人いたが、2週目は私だけが日本人だった。

英語のレベルについては特に問題なかった。問題は、スマホやパソコンを操作する授業が多かったことだ。日本の田舎で暮らしている高齢者としては、私のスマホのスキルはそう見劣りのするものではない。しかし、20代前半の欧州の若者たちと比べるとなると話は別だ。いろいろな場面で先生やクラスメートの助けを借りなければならないはめになった。

もうひとつ。若い連中との興味や知識のレベルの違い。最近のニュースについて10の質問をつくり、クイズ形式で競い合うという「プロジェクト」があった。私の質問は、カナダとインドの関係の悪化、インド北部の民族紛争など、きわめてまじめなものだった。しかし他の学生たちの質問はその多くがスポーツ選手や芸能人のゴシップに関するものだった。私にとって未知の世界で、答えようがない。"We are living in different planets"という感想を述べておいた。

といっても彼らと会話がないわけではなかった。世界のいろいろな場所を経験しているということで、彼らもある種の敬意をもって接してくれたように思う。彼らとの会話から私が得ることも多かった。

こんな苦労をするためにどうしてわざわざ高いお金を払ったのかと入学を後悔する日もあったが、今となっては欧州や中米の若者と接する機会をもてたことは貴重な体験だったように思う。急速に変化する現代社会の中で自分がいかに取り残されており、いかに無力であるかを自覚できただけでも得るものがあった。ただし、スマホの多用が英語力の向上につながるかどうかについては今でも疑問が残る。もっと深い討論をしたかったというのが本音だ。

シンガポールの印象

3、4日で十分なはずのシンガポールに20日間も滞在した。ホテル内に引きこもることが多かったので、その割には見るべきところを見ておらず、シンガポール人とのふれあいもほとんどなかった。それでも気づいたことがいくつかあった。

まずシンガポールの人たちが予想外に親切だったこと。交通カードのチャージなどでやり方がわからず困っていると、だれかが助けてくれる。MRT(Massive Rapid Transpot=地上も走る地下鉄)で席を譲られたことが合計4回(東京でも大阪でも地下鉄で席を譲られたことは一度もない)。シンガポールは過剰なまでの競争社会だ。この忙しい街の中でcompassionはまったく期待していなかっただけに、うれしい驚きだった。学校の授業の中でシンガポールの感想を求められたとき、このことを発言しておいた。

MRTの車内

次に気づいたのは、日本の存在感の大きさ。モンゴルでは韓国の影響力に圧倒されたが、シンガポールでは日本のほうが目立っていた。シンガポールの銀座といわれるオーチャード・ロードには伊勢丹と高島屋がどんと店を構えている。MRTの大きな駅には必ずドンキがある(シンガポール人の耳にも「ドンドン・ドンキ~」というメロディーがこびりついているらしい)。すき家もあれば吉野家もあり、大戸屋やサイゼリア、あるいはモスバーガーで食事することもできる。ダイソーやユニクロは言うまでもない。スーパーへ行けば、寿司や刺身、日本風の弁当まで購入できる。街の中で日本語が聞こえることも多かった。

ドンドン・ドンキ

居酒屋もよく見かけた



3番目はシンガポール社会のジタル化。空港での出入国は、係官を顔を見ることなく、すべて自動的に処理された。MRTはEZ Linkという交通カードを使って利用したが、通常のクレジットカードをかざすだけでも利用できる。スマホでQRコードを読み取って注文するレストランも少なくない。クレジットカードさえあればほぼ万全だが、ホーカー・センターの一部の店や街中の小さな店などでは現金しか受け取らないところもあるので、ある程度の現金は必携。

2023年10月2日月曜日

シンガポール短期英語留学記 その1

 東南アジアの国はほとんど行った。行っていないのは、東チモール、ブルネイ、それにシンガポールの3か国。シンガポール行きを思い立ったのは、こうした理由からだ。シンガポールを観光するだけなら、3、4日あれば十分だ。

と思っていたところ、EF Language Schoolなる語学学校の宣伝をネット上で見かけた。EFはスイスを拠点した国際的な語学学校で、シンガポールにも進出している。シンガポールへ行くなら、ついでに英語にふれるのもいいだろう。2週間の英語コースに申し込んだ。

コースは9月11日から9月22日まで。余裕をもたせ、授業開始より少し早めの9月6日にシンガポールに到着し、帰りも授業終了から3日後の9月25日とした。合計20日間、3週間近くのシンガポール滞在となる。

かくて往路は9月6日関空発シンガポール・チャンギ空港着、復路は9月25日シンガポール・チャンギ空港発26日早朝関空着のベトナム航空便のチケットを購入した。往路も復路もベトナムのホーチミンシティ経由。料金は一切合切すべて含めて70970円。LCCを使えば、もう少し安くなるが、時間などの関係から今回はなじみのベトナム航空にした。

以下、今回のシンガポール旅行兼短期英語留学の様子を時系列的にではなく、項目ごとにまとめてみた。

気候

シンガポールの気候は一年を通じてそれほど変わらず、常夏の毎日が続く。雨期は11月~2月とされている。9月にも雨は降るが、激しい雨ではなく、1時間もすれば止むことが多い。私の滞在中、しつこく雨が降り続いたのは1日だけだった。といっても、晴れた空が突然曇って雨になることもあるから、傘は常時必携だ。日中は蒸し暑い。日本の8月並か、それ以上だ。

ホテル事情

空前の円安ということもあり、ホテルは軒並み高い。ちょうどF1に重なったこともあり、バス・シャワー付きの個室は1泊2万円でも安いくらいだった。ドーミトリーでも6~9千円くらいしたようだ。語学学校に通学中の2週間は学校から斡旋されたホテル(チャンセラー・ホテル)に宿泊した。ツインベッドの広い部屋ではあったが、アメニティやサービスの質は日本のビジネス・ホテル以下だった。1泊13000円ほど。シンガポールでは安いほうだ。

観光

観光はあまりしていない。Youtubeなどを見ると、3泊4日くらいの旅行者でも私より多くの観光スポットを訪れている。怠惰な私は冷房のきいたホテルでだらだらと時間を過ごすことが多かった。外が蒸し暑く、2、3時間歩くとぐったりしてしまう(疲れやすいのは歳のせいかもしれない)。グーグル・マップを見ても道に迷ってしまうという絶望的なまでの方向音痴がこの出不精をさらに後押しした、

マーライオン公園、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ、リトル・インディア(これは学校のアクティビティで訪れた)、アラブ・ストリート(サルタン・モスク)、セントーサ島などは何とか訪れたが、動物園、植物園、ショーアップされた夜景などは見ていない。

ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ

キラキラと光り輝く観光スポットよりも、シンガポールの辺境、シンガポールの陰、つまりは「現実」を見てみたい。シンガポールには「スラム」と呼べるような一画はないが、これはシンガポールに貧困がないということではない。インドネシアやミャンマー、ベトナムなどからの移民労働者が一部屋に何人も詰め込まれ、劣悪な条件のもとで働いている様子はYoutubeなどで数多く報告されている。

シンガポールの東部にあるゲイランは、公認の売春宿が密集する地区であり、移民労働者が暮らす劣悪な住宅や安宿、不衛生な食堂など、シンガポールの中心部とはひと味違った光景が見られるという。

ある日の午後、このゲイランを訪れた。30、32など大きな番号を付与された置屋とおぼしき建物が並んでいる。入口に座っている男性からは日本語で「見るだけ、見るだけ」という声がかかる。

ただそれだけだった。街並みはシンガポールの他の地区と同様に整然としており、立ち寄った食堂も不衛生というわけではなかった。

別の日には「シンガポール本島に残された唯一の村」とされるKampong Lorong Buangkokに行ってみた。MRTとバスを乗り継いで1時間近くの道のりだ。確かにシンガポールの他の地域とはことなる一画がある。しかし村と呼ぶには小さく、せいぜい30戸の家が散在しているだけだ。周りを歩いてみたが、誰にも出会わなかった。

Kampong Lorong Buangkok

食事

到着した日の翌日、シンガポールではじめての昼食をクラーク・キーにあるホテル付近のレストランでとった。注文したのはポーク・カツと揚げパン(油条)。飲み物は頼んでいないのにこれだけで15シンガポール・ドル(1600円以上)。これにびっくりし、夕食はセブンイレブンで購入したカープヌードルで済ませた。カップヌードルですら300円ほどする。

シンガポールではじめて口にした食事


だが、翌日からはもっと安く食べる方法を見つけた。ホーカー(hawker)・センターと呼ばれるフードコートへ行けば1食4~6ドル(500円前後)程度で済ませることができる。ホーカー・センターはシンガポールの至るところにある。

チャイナ・タウンのホーカー・センター

チャイナ・タウンのホーカー・センターで食べた料理の写真を載せておこう。これらはいずれも10ドルほどだったが、チャーハンあるいはヌードルの単品にすれば5ドルですむ。

チャーハンと小籠包

ヌードルと揚げ餃子

シンガポール名物のチキン・ライスもホーカー・センターなら5~6ドルだ。マックウェル・ホーカー・センターにある天天海南鷄飯店のチキン・ライスはMサイズで確か6ドルだった。

天天海南鷄飯店のチキン・ライス

味はいずれもまずまず。絶品とまで言えない...というのは食に対する私の感じ方が劣化しているせいかもしれない。予想外においしかったのがカヤ・トースト。トーストにカヤといわれる甘いジャムとバター(あるいはピーナッツ)を塗った1品で、コーヒーや半熟ゆで卵とセットで提供される。

カヤ・トースト

寿司や弁当などの日本食もセブンイレブンやドンキのほか、スーパーで容易に手に入れることができる。ただ、シンガポールのパサパサした米は寿司には合わないように思う。(続く)

2023年8月11日金曜日

モンゴル2023 シティ・ツアー、帰国

 7月21日

今日はオンラインで申し込んであったシティ・ツアーの日。ガイドが8時半にホテルに迎えに来るということだった。代金の150ドルはすでに支払っていたが、はたしてほんとうにガイドが現れるかどうか、一抹の不安があった。

不安は杞憂だった。8時半に1階に降りると、ガイドが待っていた。Land Hotelの朝食は9時(実質的には9時半)からだから、今日はあきらめざるをえない。といっても残念な気を起こさせるほどの朝食ではない。

ガイドは50歳代くらいの女性。彼女が運転する車でまず向かったのは、ガンダン僧院。大きなチベット仏教の僧院だ。チベット仏教に特有のマニ車がある。25mの巨大な観音像を筆頭に、さまざまな仏像も見られる。いくつかの部屋では信徒たちが僧侶に唱和して読経していた。

ガンダン僧院


25mの観音像

続いてモンゴル民族博物館へ向かう。ここはすでに訪れた場所だ。だが、博物館の男性職員の英語ガイド付きなので、改めて入館する意味はあった。入館料やガイド料はすべてツアー代金に含まれていた。博物館のガイドと、元寇やジンギスハーンに対する評価について話した。ガイドによれば、元寇が失敗したのは底が平らな中国の船を使っていたからだとのこと。「そもそも侵攻の時期として9月を選んだのが間違いだったのでは」と言うと、笑っていた。ジンギスハーンは侵略された他の国からすれば大量虐殺の張本人だ。そのジンギスハーンがモンゴルで英雄とみなされているのはどうしてかという質問に対しては、「いくつもに分かれていたモンゴルをひとつの国として統一したから」との返答があった。

スフバートル広場をしばらく見物してから、ボグドカーン宮殿へ行く。モンゴルの最後の王であったボクドカーンの宮殿だ。ここでも宮殿専属の英語ガイドが付く予定らしかったが、いつまで待ってもやってこないので、専属ガイドなしで見て回った。したがって何を見たかほとんど記憶に残っていない。覚えているのは中庭で行われていた結婚式だけだ。

結婚式

1時近くになり、昼食をとることにした。向かった先はザイサン・トルゴイ。この麓にある小さな食堂に入る。出てきたのはホーショールとグルヤシ。どちらも今までに食べた料理だ。値段もあまり高くなさそうだ。

「このあとコンサートがはじまる5時までいったんホテルに帰って休んだらどうか」とガイドは提案してきた。これは彼女の手抜きだ。おそらくツアー・コースにはブラック・マーケットも入っているはずだ。さらには、ザイサン・トルゴイの丘に登ることもコースに入ってるのだろうが、「登ろうか」という提案すらなかった。ただ、ブラック・マーケットに行くこともザイサン・トルゴイに登ることもすでに経験済みの私としては、ホテルで体を休めるほうがありがたかった。

ツアー・ガイドはEnglish Speakingのはずだが、彼女の英語は少しあやしかった。よく理解できない場面も少なからずあった。以前には中国まで出かけて商品を仕入れ、ロシアで販売する仕事をしていたらしい。モスクワやサンクトペテルブルクまで足をのばしたらしいが、よく行ったのはイルクーツクだ。イルクーツクではモンゴル語も話されているという。人種的にもモンゴル人に近いのだろう。「モンゴル人のほうがイルクーツクの人たちより顔が大きい」とはガイドの弁。

ツアー・ガイドと一緒に昼食


3時前にホテルに戻り、4時過ぎまで休む。迎えに来たガイドの車でスフバートル広場に面した国立オペラ劇場に向かう。

モンゴル伝統音楽の公演は5時にはじまり、6時半に終わった。2、300人の観客はほぼ全員が外国人だった。ここでも韓国人が多かったが、日本人のグループもいた。公演の内容はほぼ予期したとおりだった。モンゴル独特の唱法であるThroat singingを聴くことができて満足。

公演舞台

Throat singing

公演終了後、待っていたガイドの車でホテルへ戻る。車中、ガイドは明日の空港までの運転を買って出てきた。10000MNT(4000円)とのこと。高い。UBCabを使えば、7000MNTくらいだろう。しかしUBCabではドライバーとうまくマッチングできないケースもありうる。あえて値切らず、彼女の提案を受け入れた。

夕食は例によってホテルの近くの韓国系コンビニで購入した。キンパはさすがにあきているので、肉まんにした。何種類かのまんじゅうがある。レジの店員に英語で違いを尋ねた。若くてかわいい女店員は1つのまんじゅうを指して「カウ」と言う。もう1つは「キムチ」らしい。本来ならbeefと言うべきところを「カウ(cow)」と表現したその言い方がかわいかった。

7月22日

約束どおりガイドは9時に迎えに来た。ホテルの朝食はこの日もとることができない。

空港には10時過ぎに着いた。関空行きのMiat(モンゴル航空)便は13時発。少し残っていたモンゴル通貨でサンドイッチの朝食をとってから、セキュリティ・チェックとイミグレを問題なく通過し、18時に無事関空に到着した。

最後に、今回のモンゴル旅行の感想をいくつかランダムに書いておこう。

(1)10日間という、それほど短い時間ではないにもかかわらず、モンゴルの草原を馬で駆けることもなく、ゲルに泊まって遊牧民の生活を垣間見ることもなかった。ウランバートルを離れたのもハラホリンに行ったときだけ。後悔はしていない。最初から、無理はせずに、のんびり滞在するつもりだったからだ。馬にもラクダにも乗らず、ゲルの中で夜を過ごすことがなくても、十分にモンゴルを楽しめた。旅には年齢に応じたスタイルがある。ガイドブックのとおりに行動する必要はない。

(2)韓国の影響の大きさを感じた。コンビニはほぼすべてが韓国系。Korean restaurantもいたるところにある。外国人観光客も韓国人がもっとも多い。相対的にあまり目立ったなかったのが隣国の中国だ。もちろん中国人観光客にも数多く出会ったが、予想していたほどではなかった。ハラホリンからの帰りのバスで一緒になったモンゴル人青年は「モンゴル人は中国をあまり好きではないから」と説明していたが、真偽のほどはわからない。

(3)7、8月はモンゴル旅行に最適だ。少し暑いが、30°を超えることはなく、なによりも湿気がない。冷房の必要もない。「夏はハエが多い」とも聞いていたが、家畜の周りで少し気になったくらいで、街中ではほとんど見られなかった。

(4)ウランバートルの交通渋滞は噂どおりだった。タクシーに乗っても、渋滞のために予期したより時間がかかるケースが少なくない。公共の交通機関をもっと充実させれば、たとえば地下鉄を開通させれば、渋滞も多少は緩和されるのだろうが、それには多額のお金が必要になる。



2023年8月10日木曜日

モンゴル2023 ブラック・マーケットとザイサン・トルゴイ

 7月19日

Land Hotelの朝食は9時から10時までという変則的な時間。しかも実際には食事が出てくるのは9時半以降になる。これはウランバートル初日に経験済みだったから、9時半を過ぎてから朝食の場に行く。内容はベーシックで、値段相応。

Land Hotelの朝食

朝食を済ませ、State Department Storeへ向かう。SIMロックを解除してもらうためだ。Unitelのカウンターの前に並んでいると、女性から声をかけられる。13日と14日に2泊したTop Tour & Guesthouseのオーナーだった。ちょうどよかった。チェックアウト時に返し忘れていた部屋の鍵を返しに行こうと思っていたところだ。Top Tour & Guesthouseはデパートから6、7分で遠くはないが、手間がはぶけた。

ロックを解除してもらったところで、デパートの近くにある理髪店に行く。恒例となっている「旅先での散髪」のためだ。料金は25000MNT(約1000円)。日本の千円カットとあまり変わらない。

理髪店


さてやっと本来のウランバートル観光だ。目指すはブラック・マーケット。このマーケットのことは数日前にTop Tour & Guesthouseの同宿者から聞いた。ナダームの期間は閉鎖されていたが、17日からオープンしているという。

ブラック・マーケットというおどろおどろしい名前だが、以前はともかく、現在ではウランバートル最大の普通のマーケットで、盗品を扱っているわけでもなく、違法でもない。正式な名称は「ナラントール・ザハ」(「ザハ」はモンゴル語で「市場」という意味)だ。

State Department Storeからタクシーで行く(8000MNT)。確かに大きなマーケットだ。衣類から家具、ゲルの材料や部品までいろいろなものを売っている。しかし残念なことに食品セクションはない。食堂もある。ここで昼食をとりたいところだが、2時過ぎにもかかわらずかなり混んでおり、どう注文していいかわかない。後悔は残るが、あきらめた。

ナラントール・ザハ(ブラック・マーケット)の入口

ブラック・マーケット

ブラック・マーケット内の食堂

タクシーでState Department Storeまで戻り、Asian Food Zoneで遅めの昼食とした。今まで何回も食べたことのあるグルヤシと生ビールで、34500MNT(1400円ほど)。

ホテルに帰り、オンラインで明後日(21日)の市内ツアーを申し込んだ。ランチと夕方からのコンサートを含めて150米国ドル。てっきりグループ・ツアーだと思い、他の観光客との出会いを期待して申し込んだのだが、あとでプライベート・ツアーだと気づいた。150ドルはグループ・ツアーとしては高すぎる。

7月20日

朝食後、配車アプリのUBCabを使ってザイサン・トルゴイまで行く。ザイサン・トルゴイは1971年に建造された円形の戦勝記念碑で、円形の内側には第二次大戦をテーマとするモザイク壁画が描かれている。丘の上にあることから、ウランバートルを一望する場ともなっている。

ザイサン・トルコイ

かつては麓から丘の頂上まで徒歩で登るしかなかったが、現在では複合目的のビルが建っており、7階までエレベーターで行き、残りの若干の階段を登ればよい。

かなりの数の訪問者を見かけた。なかでも目立ったのが若い韓国人観光客だ。韓国・モンゴル奉仕団というボランティア・グループもいた。

韓国のボランティア・グループ

帰りもUBCabを利用した。やってきたタクシーの運転手は女性だった。これには驚かなかったが、助手席に4、5歳の女児が座っている。子連れのタクシー運転手に遭遇するのははじめての経験で、ちょっととまどった。

State Department Storeまで送ってもらい、その近くにあるレストランに入った。3時まで手頃な価格のビジネス・ランチを提供しているレストランだ。3時10分前だったが、ビジネス・ランチは可能とのこと。AランチとBランチのうち、Aランチを選択した。Bランチはスパイシーということで避けたのだが、Aランチはハラホリンで食べたことのあるホーショールだった。生ビール(ジンギスカン・ビール)と併せて20000MNT(800円ほど)。

ビジネス・ランチ

このレストランのウェイターはウランバートルのレストランには珍しく、英語をしゃべった。「英語をしゃべる店員に出会えてうれしい」との感想を伝えておいた。

今日も夕食はコンビニで買ったキンパ(韓国風巻きずし)。さすがにあきた。

2023年8月8日火曜日

モンゴル2023 ウランバートルへ戻る

 7月18日

ウランバートル行きのバスは午前10時にハラホリンのバスターミナルを出る。私のほかに、ハルピンおばさんとその連れの青年もこのバスを利用する。バスターミナルまではGaya's Guesthouseが無料で送ってくれた。

ハルピンおばさんとその連れは、ウランバートルのバスターミナルでバスを乗り継ぎ、モンゴル北方のフブスグル湖を目指す。ウランバートルからフブスクル湖まではバスで15時間。寝台バスではなく、普通のバスらしい。今の私には過酷すぎる行程だ。10年ほど前の2014年には24時間以上かけて普通のバスでモロッコのマラケシュから西サハラまで行った。2012年には寝台バスだが新疆ウイグルのホータンからウルムチまで26、7時間かけて移動した。10年前には、いや5年前でもこうした過酷な移動も躊躇なく選択したものだ。今では長時間のバス移動はできれば避けたい。

バスは定刻に出発。2時間ほど走ったところでランチ休憩。ウランバートルからハラホリンへ来たときと同じ食堂だ。注文したのも同じで、「グルヤシ」という肉の煮込み料理。

バスの車窓から


私の隣にはモンゴル人の長髪の青年が座っていた。なんとなく英語ができそうな雰囲気だったので話しかけてみた。私が日本人だと告げると、彼は日本語で話し出した。日本に留学して8年間滞在したとのこと。昨年モンゴルへ帰ってきて、今年また日本へ行く予定とか。

行きのバスでは通路を挟んだ隣が日本人旅行者で、帰りのバスの隣は日本留学経験者。行きも帰りも日本語で会話できた。希有な偶然だ。

モンゴル人青年とはウランバートルまでの残りの4時間、ほとんど休みなくたっぷり日本語で話した。

青年は大学2年のときに日本へ留学。日本語学校から秋田の高専、さらに新潟大学に入り修士課程に進んだ。日本滞在の最後の3年間は京都に住んでいた。専攻は建築。修士論文を日本語で書いたという。

京都に住んだのはミャンマー人のガールフレンドが京都大学で学んでいたためだ。

日本のサービスの質の高さ、その裏面であるサービス労働者を巡る過酷な状況、ブラック企業のこと、ミャンマーのこと、最近の日本語(たとえば「ヤバい」とう表現)のこと、そしてもちろんモンゴルのことなど、話題は多岐に及んだ。

彼によれば、モンゴルの大きな問題は政治の腐敗だ。元力士の旭鷲山が政治家になった話を持ち出すと、「彼もただの腐敗した政治家になってしまった」と批判していた。

青年の実家はハラホリンで製麺業を営んでいる。普段はウランバートルに住んでいるが、ナダームの4日間だけ実家に帰って家業の手伝いをしたという。

今年中に日本に帰り、大林組の派遣社員として働く予定らしい。

モンゴル人青年

ウランバートルの案内が必要なときにはいつでも連絡してくれと、私に電話番号を伝えてくれる。せっかくの申し出だが、ウランバートルの残りの日は自分で動きたいこともあり、遠慮しておいた。

今日からモンゴルを離れる22日までの4泊5日の宿は、初日と同じLand Hotelを予約していた。このホテルに満足していたわけではないが、バスルーム付きの個室で1泊22.5ドルという安さにひかれた。本来はゲストハウスの個室がベストなのだが、Booking.comではドーミトリーしか空きがなかった。

ホテルに着くと、スマホのSIMカードに問題が発生していた。UnitelのSIMカードはスマホを再起動するたびにSIMカードのPINコードを入力する仕組みになっていた。これまでにこうした経験がなかったこともあり、つい(SIMカードではなく)スマホのPINコードを入力してしまい、しかもその入力を3回連続して繰り返したため、SIMカードがロックされてしまったのだ。ロックを解除するにはSIMカードのPUKコードを入力する必要がある。PUKコードなるものはSIMカード購入時にもらったカードに記載してあったのかもしれないが、このカードは先日財布とともになくしている。

SIMカードを購入したState Department Storeまで出かけ、事情を話してロックを解除してもらうしかない。

ホテルからState Department Storeまで歩いて出かける。ロックは解除してもらえそうだが、時間がかかるので明日また来てくれとのことだった。

夕食は韓国系コンビニ(コンビニの大半は韓国系だ)で購入したキンパ(巻きずし)で済ませた。

2023年8月7日月曜日

モンゴル2023 ハラホリンを歩く

 7月17日

朝食の席で私の前に座っていたのは米国人の青年。カリフォルニア州出身で、コロナ前に米国を出て、4年間ほど世界各地を旅しているという。昨日フランス人女性が「米国人男性と一緒に歩いて隣町まで行く」と話していたが、この青年がまさにその相手だった。やがて当のフランス人女性も姿を見せた。昨日はフランス語と日本語で話したものだが、第三者がいるこの場では当然言葉は英語になる。

中東風の若いカップルがやってくる。女性はヘッド・スカーフを着用している。どこの国籍だろうか。気になる。シリア、イラン、あるいは...。トルコ人だった。彼らも長期旅行者だ。モンゴルに来る前に日本に4か月ほど滞在したとのこと。日本での体験は総じてポジティブだったようだ。ハラル料理の話から、彼らがよく行ったらしい「サイゼリア」へと話が飛ぶ。

私の斜め前に座っていたのは中年の中国人女性。若い中国人男性と一緒だった。母と息子かとも思ったが、あとから聞くと、ウランバートルのゲストハウスで知り合って一緒に旅をしているだけとのこと。これもあとから聞いたことだが、中国人女性は46歳だった。

彼女はハルピンの出身(以下、「ハルピンおばさん」と呼ぶことにする)。日本はすでに2回訪れたが、あと2回は行ってみたいと言う。「ペイハイド、トンジン、ジンド、ダーバン、そしてXXXなどへ行った」とも。北海道、東京、京都、大阪はわかったが、最後のXXXはわからなかった。スマホの画面を見せてくれる。XXXは沖縄のことだった。

「日本では北海道をペイハイド、大阪をダーバンと言っても通じない。次に日本へ来るときは日本の地名を日本語で(つまりは英語で)覚えてから来るように」と忠告しておいた。

昨日はエルデニ・ゾーを見るだけで終わってしまった。今日はハラホリンのメイン・ストリートを見てみたい。ハラホリンの今日の天気予報は雨ということだが、午前中は大丈夫みたいだ。ゲストハウスから30分以上かけ、ぶらぶらと歩きながら、それらしきところにたどりつく。といっても、ちょっと大きめのホテルと3、4軒のカフェやレストランがあるだけで、メイン・ストリートと呼ぶのはおおげさだ。

通りのはずれのほうにあるらしい川を目指して歩く。20分ほど歩くが見えてこない。さすがに疲れ、引き返す。川を見ることはかなわなかったが、通りすがりに見える家並みは興味深かった。ゲルでもなく、ウランバートルにあるような高層アパートでもなく、おそらくこれが平均的なモンゴル人の住み家なのだろう。

沿道の家並み


午後1時を過ぎたところで、「メイン・ストリート」にあるちょっと大きめのレストランに入る。ウェイトレスがなかなか注文をとりに来ない。こちらから声をかけると、スマホの画面を見せてくる。画面には韓国語が表示されている。私を韓国人だと勘違いし、グーグル翻訳を使ったのだろう。日本人であることを英語で伝える。英語への翻訳に切り替えて表示されたのは「Closed」という情報。まだ客はちらほら残っているようだが、新しい注文は停止していた。

やむなくさらに20分ほど歩いて、昨日訪れたエルデニ・ゾー(寺院)の周辺にある食堂を目指した。昨日とは別の食堂に入る。客の食べている料理を指さし、これを3個くれと伝える。ここでもウェイトレスがスマホの画面を私に差し出す。表示されているのはまたまた韓国語だ。日本人であることを伝え、日本語の翻訳を表示してもらう。注文したのは「ホーショール」というモンゴル伝統のパイのような料理だが、画面には「パンケーキ3個でいいのか」という日本語が表示されていた(ホーショールが「パンケーキ」と日本語訳されていた)。ホーショール3つとミルク・ティー2杯で8000MNT(300円ほど)だった。

ホーショール


今日は「ナダーム」の最終日。エルデニ・ゾー前では子供たちが輪になって踊っていた。

子供たちの踊り

そうこうしているうちに、空模様があやしくなってきた。エルデニ・ゾーの近くにある博物館に入るのはあきらめ、スーパーに立ち寄ってから宿に帰ることにした。

スーパーで買い物を終え、外へ出たときにちょうど雨が降りだした。かなり激しい雨脚だ。急いでカバンから傘を取り出し、宿へ向かう。スーパーから宿までは7、8分。風も強く、傘をまともにさすことができない。ゲストハウスに着いたときにはかなり濡れてしまった。皮肉なことに、着いてからしばらくすると雨はやんだ。

共有スペースに行くと、若い東洋人の女性がタブレットで何かを鑑賞している。韓国語だ。韓国語で声をかける。いつものとおり、韓国語で話しかけてもあとが続かない。英語に切り替えて話を続ける。

彼女はソウル出身。モンゴルははじめてで、モンゴルのあとは列車で北京と上海へ向かう予定だ。三回の訪日経験あり。いずれも東京。どうして東京なのかと尋ねると、劇団四季のテストを受けるためだったとのこと。合格には至らなかったらしい。つまり彼女は女優もしくはその卵なのだ。「女優と名のつく人と話すのは生まれてはじめてだ」と私の驚きを伝えておく。

やがて朝食時に知り合ったハルピンおばさんもやって来た。紅茶を飲みながら、日・中・韓の三者会談がはじまる。3つの国での漢字の意味と使い方からはじまり、東アジア3か国が抱えている問題に及んだ。

日本語で「カンジ」、中国語で「ハンズ」、韓国語で「ハンチャ」と呼ばれる漢字については、韓国人女性に対して「自国語(つまりは韓国語)を理解するには、漢字の勉強が不可欠だ」と力説したが、あまり納得したようではなかった。「愛人」という漢字が3つの国でそれぞれ異なる意味を持つことなども話題にした。

日・中・韓が抱える問題にはいくつかの共通項がある。たとえば、少子化、過度な受験勉強、女性の社会的地位など。こうした共通の問題を抱えているにもかかわらず、3か国の関係がぎくしゃくしているのは残念だとの感想を述べておいた。「中国は世界でナンバーワンになろうとしている」という私に対し、ハルピンおばさんは「そんなことはない」と否定していた。

小一時間は話しただろうか。この三者会談は今回の旅行での忘れがたい経験となった。

この日も夕食はスーパーで購入したイワシの缶詰とビスケットで済ました。明日はバスでウランバートルへ帰る日だ。チケットはGaya's Guesthouseのオーナー夫人が予約してくれていた。ハルピンおばさんと中国人の青年も同じバスでウランバートルへ向かう。